ワデスドンマナーに刻まれたロスチャイルド家の栄光
Part.1<その栄光と歴史>

ワデスドンマナーの外観
ロスチャイルド家 栄華の印ワデスドンマナー
© All rights reserved by Richard Collier – Wildlife and Travel Photography

今回から2回に分けて、イギリスにゆかりの深い世界有数の富豪ロスチャイルド家(おおもとは、ドイツ、フランクフルト出身のユダヤ人大富豪)と、ロスチャイルド家が建設し現在はナショナルトラストに寄付された元ロスチャイルド家の邸宅「ワデスドンマナー」をご紹介します。

ロスチャイルド家の栄光

ワデスドンマナーは、ロスチャイルド家の現存する建造物の中でも最も素晴らしく、またその揺るぎない財力を顕著にあらわしている。ヨーロッパ中の19世紀のロスチャイルド家の資産のほとんどが売却され、取り壊されている現在、ここだけが一族の栄光の時代の雰囲気を保っており、しかも一般公開されている。ヴィクトリア朝後期、何もない広大な土地にこのマナーハウス施工のため線路がひかれ、並木が運び込まれ植えられた。電球が発明されて間もなく、この建物の各部屋には電灯のスイッチが取り付けられ、ヴィクトリア女王が訪問時に点灯消灯を何度もさせたという話は有名だ。

ワデスドンマナーの規模は、下の着工に関する記録からよくわかる。
「水源が近くになかったため、エイルズベリーから11マイル(17キロ)の水道管が引かれた。またガス供給のためガス製造所がウエストコットに新設された。このために列車の線路が建設された。並木道ノースアベニューを作るのに、ロッジ・ヒルの丘の頂辺は平にならされた。建物の基礎のために30フィート(9メートル)深く掘り下げ、硬質の土の上に基礎を築いた。ノルマンディーから運んできた木々を植樹し、何もなかった土地が、これらの木々で素晴らしい景色に変貌した。」
ワデスドンマナーの着工は1874年開始、6年後の1880年には男性専用の棟バチェラーズ・ウィングが完成して初の落成パーティーを催し、これに男性の友人7人が招待されている。3年後は女性も含む20名が招待され、週末を楽しんでいる。建物、庭園その他全ての敷地内の工事が完成するのは1889年で、計15年という歳月が費やされた。
建物の建築スタイルは、フランス16世紀のシャトー(ルネッサンス様式)で、フランス人建築家ガブリエル=イポリット・デスタイユールが雇われた。庭園はこちらもフランスの庭師、エリー・レインが手がけ、当時のイギリス様式庭園とフランス様式のものが微妙に混ざり合った興味深い庭園に仕上がっている。このことは後ほど詳しく紹介したい。

ロスチャイルド家とファイヴ・アローズ

ロスチャイルド家初代のメイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1744-1812)は、フランクフルトの大銀行の創設者であり、ハセ・カッセル選帝侯の財務顧問を務めていた。
ロスチャイルド家の「5本の矢 (ファイヴ・アローズ、the five arrows)」という紋章は、メイヤー・アムシェルの5人の息子たちを象徴している。長男はフランクフルトで父の後を継ぎ、4人の弟たちはウィーン、ロンドン、ナポリ、パリ各地に銀行を設立し、そのままそれぞれの都市に住み着き、拠点としてロスチャイルド家独特の銀行ビジネスを展開した。これらの5拠点を、5分家と呼ぶこともある。

ロスチャイルド家の紋章
ロスチャイルド家の紋章
4つに区分けされた盾の青い背景(盾の右上と左下)に5本の矢を握っている絵が描かれている
© All rights reserved by arthur.strathearn
ファイヴ・アローズ
ファイヴ・アローズ

ここでファイヴ・アローズについて避けて通れない史実は、ワーテルローの戦いに置いて、ロンドン分家のネイサンが、他の兄弟たちの助けを借り、スペインに駐屯していたウェリントン公爵に軍資金を送り届けていたという話、またこれに関連した一連の話である。この戦いで、ネイサンがナポレオンの敗北の情報をロンドンの国会よりも先にいち早く得たことをHSBCとシュロダーズの歴史家、キングスカレッジのリチャード・ロバーツ教授が言及している。
「1815年6月18日のワーテルローの戦いにおいて、ナポレオンのヨーロッパ支配がついに消え去った。これを受けてギルト(金)が急騰し、ロンドン証券取引業界、特にネイサン・ロスチャイルドほど喜んだ者はいない。
6月18日夜、ロスチャイルドの飛脚がワーテルローを出発した。ロスチャイルドの船に乗った飛脚がイギリスに上陸し、ネイサンのもとにウェリントン軍の勝利のニュースが届いたのは19日(月)夜。ワーテルローを出て24時間後である。しかし、ウェリントン軍の飛脚の情報は水曜まで届かなかった。この2日間で彼は証券取引に働きかけ、金を売り捌き膨大な富を得たといわれる。1815年春の5人の兄弟の財産は50万ポンドであったが、1816年7月になるとこれが2倍の100万ポンドに膨れ上がった。因みに、当時の平均年収は50ポンドである。」

如何に情報網の最先端をいき、時代を先取りしていたかがわかる。5都市間での機密情報交換手段に、伝書鳩を頻繁に利用したこともよく知られている。このワーテルローの戦い後の富が、ロスチャイルド家の初の本格的金融事業となったといわれている。実はネイサンは敵軍のナポレオン軍にも軍資金を貸し付けていたというから、この返済によって得た富もまた、100万ポンドの財産に貢献したことに間違いはあるまい。
ロスチャイルド家の手がける事業は銀行、金融のほか、エネルギー、物件、鉱山、チャリティーと広範にわたる。1875年、イギリス政府がスエズ運河の400万ポンドの株を購入するにあたって手を貸したのが、ワーテルローの戦いで富を築いたネイサンの長男、ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルドである。伝説によると、この取引に書類は一切用意されず、口約束のみで「紳士的に」行われたそうである。

フェルディナンド・ド・ロスチャイルドとワデスドンマナー

さて、ワデスドンマナーに話を戻そう。施主、フェルディナンド・ド・ロスチャイルド男爵(1839-98)は、ファイヴ・アローズの5人の兄弟のうちウィーンへ渡ったサロモンの孫にあたる。パリで生まれ、ウィーンとフランクフルトで幼年、青年期を過ごした。母の死後1860年初頭にイギリスに住居を構えることを決意し、21歳でイギリスに移住し、5年後1865年にイギリス人の従姉妹であるエベリーナ(1839-1866)と結婚した。彼女は、ライオネル・ド・ロスチャイルド男爵(ユダヤ人初の下院議員)の娘で、ナポレオン戦争時にイギリス軍に軍資金を供給した前述のネイサン・ロスチャイルドの孫娘に当たる。因みに、ロスチャイルド家では財産を守るため親族内での結婚が慣例化していた。ただし、女系親族に財産は一切与えられなかった。1824年から1877年、ロスチャイルド家の36の結婚のうち30件は親族内の結婚であった。
フェルディナンドは父の銀行ビジネスにはあまり興味がなく、義父ライオネルの美術品収集を手伝い、パリに赴いては、往々にしてロスチャイルド家の一族と美術品獲得を競い合った。この時期に、フェルディナンドのフランスの18世紀の美術品への趣向が培われたと言われる。不幸なことに結婚から9ヵ月後、1866年12月、難産で出産時に妻と子を同時に亡くした。1874年、父の死後、フェルディナンドは、マールボロ公爵からワデスドンとウィンチェンドンの領地を購入し、早速ロッジ・ヒルの整地と植樹に着手した。建築資材は、クエイントン鉄道から特別に作られた蒸気式路面電車で丘の中程まで運ばれ、その後、ノルマンディーから輸入したペルシュロン種の馬によって頂上まで運ばれた。更地の丘には何百本もの成長した樹木が植えられた。大木を運ぶのに16頭の馬を要したこともあったという。横たわった成長した樹木を垂直に立てるのにもまた、何頭もの馬を要したと言われる。また工事のため周辺道路の電線を全て下ろして通行できるようにするなど、準備にも相当大掛かりなことをしている。

1890年同時のワデスドンマナー
ワデスドンマナー1890年当時
©Waddesdon manor

ワデスドンには、さまざまな著名人が訪れた。1890年5月14日には、ヴィクトリア女王が来園し、ポニーの馬車で庭園を散策した。エドワード7世とジョージ5世は頻繁に訪れた。ローズベリー、バルフォア、アクイス、ロイド・ジョージ、ウィンストン・チャーチルの5人の首相の署名が訪問客リストに掲載されているほか、ロバート・ブラウニングやギー・ド・モーパッサンなどの著名な作家や詩人の署名も記録に残っている。
フェルディナンド男爵はワデスドンマナーに住み、第2の祖国との関係を深めていった。治安判事、初代郡議会議員、高等保安官を経て、後に過去58年間ロスチャイルド家が保有していたエイルズベリー地区の地方議員となる。初代ロスチャイルド卿として貴族院に移った義兄ナサニエルの後を継いで、自由党員として議会に参加している。

ワデスドンマナーの敷地地図
ワデスドンマナーの現在の敷地
ウエストコット(Westcott)がワデスドンマナーの北西に見える
© Crown Copyright and database right 2021
植樹する当時のヴィクトリア女王
ヴィクトリア女王、ワデスドンマナーで木を植林
©Waddesdon manor

ヴィクトリア女王訪問の日、敷地内の見学の後、午後の催しは伝統的な習慣である植樹を行った。前日、フェルディナンドは『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』紙の画家に、女王訪問の様子を絵に描いてもらえるよう手配していた。画家は茂みに隠れて目立たないようにしてくれるという。当日、興味津々のフェルディナンドは、植樹の際に茂みを調べてみると、約束通り「木の陰に隠れている」画家を発見したそうである。

フェルディナンドの死後

フェルディナンドが60歳になるはずだったその日、屋敷内で59歳の若さで亡くなると、ワデスドンマナーは、長年このマナーハウスで既に一緒に暮らしていた妹のアリスが後を継いだ。
アリス・ド・ロスチャイルドは、その芯の強さと優しさで今でも地元の人々に広く知られているが、ワデスドンの評判を維持しさらに高めた。邸宅内の芸術作品を増やしただけでなく、邸宅を取り囲む多くの植物が彼女のガーデニングに関する知識の豊富さを物語っている。
1922年に子に恵まれなかったアリスが他界すると、彼女の大甥であるジェームズ・ド・ロスチャイルドに財産が委ねられた。ジェームズ・ド・ロスチャイルドはフランス分家の創設者の孫にあたる。彼は1906年にエドワード・アーノルド社出版の論文「シェイクスピアとその時代」でケンブリッジ大学のハーネス賞を受賞し、1914-18年の第一次大戦中にフランス軍の二等兵として従軍した際に英国のD.C.M.を授与されるという、フランス人として異例の快挙を成している。
1913年、ユージン・ピントの娘であるドロシー・ピントと結婚。1919年には英国籍を取得し、1929年には自由党のイーリー島議員となった。ワデスドンでの伝統的なもてなしは2つの世界大戦の間も継承され、1939年にはロンドンの5歳以下の子供たち100人を収容する疎開保育所となって次世代を守った。ウォレス・コレクション(オックスフォードにある美術館)の評議員であり、著名な競走馬の所有者でもあったジェームズ・ド・ロスチャイルドは、第二次世界大戦中、物資供給省の議会事務官となった。
彼は1957年に他界したが、大叔父のフェルディナンド男爵の「ワデスドンが衰退することのないように」という遺言を守るため、ワデスドンをナショナル・トラストに寄贈した。一族が収集した素晴らしい美術品の数々を多くの人に見てもらいたいという願いが込められている。ジェームズの死後、ナショナル・トラストへの寄贈と実際ワデスドンが1959年に初めて一般公開されるまでのすべての仕事を行ったのが妻のドロシーで、このころワデスドンマナーの本格的修復作業が始まった。ドロシーの死後1988年に、フェルディナンドの妻エベリーナの弟に当る初代ナサニエル・ロスチャイルド卿の子孫で4代目にあたるナサニエル・チャールズ・ジェイコブ・ロスチャイルド卿(1936-)が継いで現在に至る。

Part2では現在公開されているワデスドンマナーを実際に訪問してきた情報をもとにご紹介しています。
ぜひ、Part2もご覧ください。

ロスチャイルド家の家系図

下記「資料・参考文献」のTHE WADDESDON COMPANION GUIDEより

資料・参考文献

Waddesdon Manor
THE JAMES A. DE ROTHSCHILD BEQUEST TO THE NATIONAL TRUST
A GUIDE TO THE HOUSE AND ITS CONTENTS
By Svend Eriksen
Second Revised Edition
MCMLXXXV

THE WADDESDON COMPANION GUIDE
Text and project direction by Selma Schwartz
The National Trust, Waddesdon Manor 2003


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