『キャンディ・キャンディ』イギリス舞台を訪ねる<後編>
前回のアメリカからモーリタニア号の客船に乗ってイギリスに渡ったキャンディ・キャンディの前編から後、物語の「その後の解釈」までの後編をお届けする。
スコットランドでの夏休み
夏の間帰省しない生徒たちが、3週間スコットランドのサマースクールに参加している。 最初は気乗りしないキャンディも、テリィの「俺の所(別荘)に来いよ」の誘いに答え、アニー、パティと共に参加している。
サマースクールはアードレー家の別荘の近く、またグランチェスター家の別荘の近くという言及がマンガの中であるが、「なかよしまんが新聞」によると、グランチェスター家の別荘の位置がこの地図に示してある、と「キャンディと100年前のアメリカ」で紹介している。
キャンディが、サマースクールの宿泊先からこのテリィのいる別荘まで走って(森の木を伝って)移動していることから、サマースクールもこの辺りにあったと言えるだろう。また、ステアやアーチ―と一緒にボートで楽しんでいる際、イライザが湖に落ちて溺れかかり、介護はアードレー家の別荘で行われている。湖の近くにたまたまいたテリィが介抱し、命を助けてもらったとお礼にと、イライザがテリィをパーティーに招待している。これがホワイトパーティーだ。
馬に乗ってパーティーに向かう白いスーツを着たテリィを、結局キャンディが足止めし、テリィはパーティーに現れない。怒ったイライザはテリィのいるグランチェスター家の別荘まで赴き、そこでキャンディと一緒にいるテリーを目撃。ハンカチを噛んで悔しがるイライザ(典型的シーン)など、彼らの一連の行動を見ると、二つの別荘はそんなに遠くない。
地図からすると、この辺りは山と谷、湖水地方のようにたくさんの湖が点在している。ダンディーから真直ぐ西に100kmほど行った辺りで、点在する湖の中でも大きなテイ湖(Loch Tay)のある辺りかと思われる。現在も湖の周辺に短期宿泊用の物件がいくつもあり、避暑地と考えられる。
湖の畔で、テリィは演劇への情熱や、貴族の立場を守り通した父の事、実の母であるアメリカ人女優の事をキャンディに打ち明ける。そして自分は父のようにならないと言い、スコットランドの思い出に、二人はワルツに合わせて踊る。輝く湖を背景に、テリィはキャンディの唇を奪う。
さて、「キャンディと100年前のアメリカ」によると、グランチェスター家の別荘はホリルードハウス宮殿(Palace of Holyroodhouse)あるいはインヴァレリー城(Inveraray Castle)に似ているのではないかという記述があるが、ホリルードハウス宮殿は王室のもので、まさか貴族であるグランチェスター家は所有出来ないだろう。ただし、テイ湖の周りにはお城は見つからない。外観はインヴァレリー城に近かったという結論にしたいと思う。
サマースクールの後間もなく、ロンドンの学院生活に戻ったキャンディは、イライザの罠により、人生の方向を決定するに値する事件に遭ってしまう。テリィに馬小屋に呼び出され、と思いきや、同じようにキャンディに呼び出されたテリィが夜逢引きしているところへ、イライザに率いられシスター達が現れる。
言い分を聞いてもらえないまま、キャンディは退学処分、テリィは自室謹慎の処分。ステアとアーチ―はテリィに迫る。あの子がアードレー家の養女を解かれたら、君を絶対に許さない。キャンディを幸せにすると決意したテリィは、自分が退学になる代わりにキャンディを退学処分から免除するよう院長シスターグレーに談判し、グランチェスター家の名を捨て、その足でアメリカに発ってしまう。
サザンプトン港へ再び
キャンディは理由も分からず退学処分を解かれ、自室に戻ると直ぐにテリィの部屋へ忍び込み、置手紙よってテリィがアメリカ行きの船でその夜発つことを知る。学院の門を飛び越え馬車を走らせサザンプトン港へ向かうキャンディ。しかし一足遅れで船は出港してしまったばかり。船は既に港から大分離れている。
キャンディは「テリィ!!」と渾身の力を込めて叫ぶが、霧に包まれデッキから船内へ入ろうとしているテリィは、キャンディの声はわずかに届くとも、空耳だと言いきかせる。
港で泣き崩れるキャンディに、男性が語りかける。「嬢ちゃん…人生には別れはつきものさ。生きていりゃあ会えるさ、きっと…」
さて、キャンディは決心すると行動が早い。サザンプトン港から戻るや否や、ステア、アーチ―、アニー、パティそれぞれに置手紙を書くと、翌朝早く自らも学院を出る。そして看護婦になるため密航という手段を使ってアメリカに帰る。
このときの経路は定かではないが、ロンドンからサザンプトン迄、数日かけて旅をする。この時忍び込んだ干し草を運ぶ馬車が辿り着いた農家で、キャンディはカーソンさんという男性と3人の子供たちと短い時間を過ごす。この時カーソンさんの娘が熱を出し、キャンディの看病の甲斐あり回復、キャンディはそこでカーソンさんにアメリカへ渡る旨を話す。するとカーソンさんは、旧友であるニーブン船長の船に乗ることを勧めた。キャンディはニーブン船長の船に密航。
ここでキャンディのイギリス舞台は終わったかのように見える。
キャンディが渡英した正確な時期だが、大牧場のオーナー、カートライトさんがポニーの家を買収するという計画をキャンディが必死に説得し、ポニーの家が存続できるようになった事件がクリスマス、この後ジョルジュが迎えに来てキャンディはすぐに渡英している。よって、1912年のクリスマスの後であることは確かだが、4~5日後に渡航したかは定かでない。どちらにせよ、キャンディはセントポール学院に冬に入学している。イギリスの始業は9月なので、だいぶ遅れて入学して学院の門を出たのが、夏休みが終わり新しい年度が始まったばかりの「秋の到来を感じさせる」季節なので、早くとも9月半ばだろう。あまりにもたくさんのエピソードがありながら、キャンディはイギリスに到着してから密航でイギリスを発つまで、実は僅か8ヵ月足らずしか過ごしていない。
キャンディのその後
水木杏子は2010年にキャンディのその後の物語『小説キャンディ・キャンディFinal Story』を、名木田恵子の名前で出版している。キャンディは30代、キャンディと、キャンディと関わった登場人物のその後を、手紙形式で細かに語っている。キャンディは、ポニーの家から「海を隔てた遠くの地」で「あの人」と暮らしている。ファンを気遣って、「あの人」が誰なのか明かしていないが、小説の中でヒントがあり、キャンディの熱狂ファンの中にはすぐにこの「あの人」が誰なのか、分かった人もいるようだ。ネタバレにしたくはないので、ここではあくまでも、イギリス舞台という本題に沿って話を進めよう。
最大のヒントは、キャンディが「エイボン川の近く」で暮らしているというくだりであろう。エイボン川(River Avon)の川沿いの街でキャンディがいるはずの場所は、ストラットフォード・アポン・エイボン(Stratford-upon-Avon)、そう、ウイリアム・シェイクスピアの生地である。
ストラットフォード・アポン・エイボンとシェイクスピア記念劇場
実はエイボン川は、イギリス以外にもカナダ、ニュージーランド、オーストラリアにあり、イギリスのエイボン川沿いの街は他にもある。
私がなぜキャンディがこの街に住んでいるかを推測するかは、キャンディ・キャンディの原作、また『キャンディ・キャンディFinal Story』の他の部分から判断していただきたいのだが、キャンディが30代の前半、火災で焼けたシェイクスピア記念劇場が、エリザベス・スコットの設計で再築され、偶然にも1932年に完成している。この劇場は1961年に王立シェイクスピア座(Royal Shakespear Company)が生まれた後、王立シェイクスピア劇場(Royal Shakespear Theatre)と改名され、現在に至っている。
1930年代のストラットフォード・アポン・エイボンのストリートシーンの動画をご覧いただこう。ここが『キャンディ・キャンディFinal Story』の舞台である、と断言できる。
グローブ座
シェイクスピア劇場といえば、ロンドンのテムズ川南岸サウス・バンクにある野外円形劇場・グローブ座(Globe Theatre)を思い浮かべる方も多いだろう。グローブ座は1599年にシェイクスピアが共同所有者であった宮内大臣一座(The Lord Chamberlain’s Men)によって建てられた。俳優としてロンドンで既に活躍していたシェイクスピアは、グローブ座で劇作家としても名をあげ、周知のように数々の傑作を生みだす。しかし木造であったこの建物は、1613年に火事で壊れてしまう。この事があってか、シェイクスピアはこの年引退しストラッドフォードに帰郷。その3年後に亡くなっている。
余談だが、木造の建物はこの頃火事で多く焼け、1666年のロンドン大火の後、チャールズ2世が全ての建物は石造とし、また通りを広くし、延焼を避ける法令を出した。イギリスに正式な防火法令が確立するのは1774年で、所謂「建築法(Building Act 1774)」に記述されている。今では多く見られるレンガの家々は、この法令が大きく関わっている。
さて、グローブ座はこの火事が起こった翌年の1614年に再建されたが、1642年に劇上は封鎖となり廃業した。そして300年あまり後の1997年に、多くの研究の末、シェイクスピアズ・グローブ劇場(Shakespear’s Globe Theatre)と名前を変えて復元された。
過去2年間はコロナ禍の為中止になることもあったが、現在でもシェイクスピアの舞台を夏の間のみ上演している。ただし、先の建築法によって、茅葺屋根は防火加工がされ、屋根裏にはスプリンクラーを取り付けるなど、建築家シオ・クロスビーと、エンジニア・ビューロハッポルドの工夫と技術により、当時の木造建築を忠実に復元することが可能となっている。茅葺屋根に限って言えば、1666年のロンドン大火以降初めて認可された。
キャンディは、1930年前後にこのグローブ座跡へ訪れた可能性が高いと考えられるため、最後に追加した。しかし、中にはそうではないと考える読者もいるだろう。そこは『小説・キャンディ・キャンディFinal Story』のそれぞれの解釈に委ねたい。
その後の解釈
キャンディが、「あの人」とこのイギリスの地で幸せに暮らしている、というハッピーエンドは、「あの人」が誰であれ、悲しい別れの多かったマンガとアニメ版のキャンディの人生、それに感情移入して共に傷ついた読者ファンの心に、ある種の満足感をももたらしたようだ。
しかし、これを持ってさえも、熱狂ファンの創作は止まらない。キャンディとテリィが結婚しジュリアンという子供を授かり、ニューヨークで暮らしているという設定のネット小説「ジュリアン」、それとは逆に、キャンディがアルバートさんと結婚して幸せになるというキャンディのその後を、「キャンディキャンディ・ファンフィクション」が描く。そして非常に膨大な小説ブログ「キャンディの森ーキャンディ・キャンディ私的二次小説」では、キャンディのその後のみにとどまらず、キャンディ・キャンディを大まかに原作に沿いながら、細かなところを自由に書き足し、書き換え、キャンディとテリィのハッピーエンドに導いている。作者はブログの最後に、「キャンディとテリィはなぜあんなに辛い別れ方をさせられなければならなかったのか。そんな必要があったのか?」と問い、「小説の展開として、テリィもキャンディと離れれば離れるほど愛が増していく事を感じましたし、障害があればあるほど強くキャンディを求めます。読者もそういう気持ちになるのです。」と答えを出している。これらのファンによる小説以外に、海外で様々なキャンディのその後のストーリーが数多く展開されている。
おわりに
さて、イギリスのキャンディ・キャンディの舞台を回ってみて、水木杏子、いがらしゆみこ始め企画チームの歴史的考察を含めた現地の調査力に驚かされ、感嘆の声を漏らさずにいられない。子供だましではない本物の文学作品を生み出してくださったことに、心から感謝するとともに、この傑作を他の観点から知ることができ、満足極まりない。それにしても、著作権をめぐる争いから、この名作が動画廃止、出版物絶版となり、マンガ本は中古でも高値になっているなど現在入手が困難となっているのが余りにも残念でならない。何らかの形でお二人が和解し、時代を超えても色褪せないヒューマニズムと愛の物語を、現代そして次世代の多くの子供たちに触れる機会が一日も早く訪れることを心から願っている。
2015年発売「キャンディ キャンディ SONG & BGM COLLECTION」に収録されている挿入曲の最初の45秒をタワーレコードサイトで再生できる。
また、Youtubeでもこのアルバムの49曲をメドレー式で視聴でき、短い解説もついている。
【参照文献・情報】
『キャンディ・キャンディ』は小説・マンガ・アニメがあるが、この記事は『キャンディ・キャンディFinal Story』以外の小説を省いたマンガとアニメ版のみをもとにしている。
- キャンディ・キャンディ資料
『キャンディと100年前のアメリカ』