『キャンディ・キャンディ』イギリス舞台を訪ねる<前編>

1970年代の不朽の名作『キャンディ・キャンディ』

『キャンディ・キャンディ』、それは女性の永遠の原点であり、作家・水木杏子(名木田恵子のペンネーム)と漫画家・いがらしゆみこが生み出した70年代の傑作であり、そのアニメ版に関して言えば、声優、テーマ音楽を含めた演出全てが、類を見ない不朽の名作として少女たちの心に深く刻み込まれ、それは40年という年月が経っても褪せることがない。


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『キャンディ・キャンディ』は講談社の月刊少女漫画雑誌『なかよし』に1975年4月号から1979年3月号にかけて連載され、アニメ版はその1年半後1976年10月1日から1979年2月2日まで週一回、全115話放映された。そして日本のみにとどまらず、漫画・アニメともに韓国語、英語、イタリア語、フランス語、スペイン語、広東語、台湾華語、インドネシア語などに翻訳・吹替され、時には文化圏の風習に合うよう微妙に編集され(インドネシア版は人類学的に「そばかす」は意味を成さないらしく、代わりに「ニキビ」という表現だったらしい)、長く愛されてきた。私は過去、ロシア語版やアラビア語版もユーチューブで目にしたことがある。
中でも熱狂的なファンたちは、それぞれの言語で、キャンディの「その後」を動画や小説として願望を思い思いに描き、人気は今でも絶えない。今回は、そんな『キャンディ・キャンディ』のイギリスで舞台となった場所を訪ねて回るという企画である。周知のとおり、セントポール学院のあるロンドンを始め、スコットランドは キャンディが養女になったアードレー家のゆかりの地、またサマースクールの宿泊先である。他に、涙の別れのシーンを飾る、サザンプトン港。水木杏子が選んだこれらの舞台を、当時の時代背景をもとに追ってみた。

先ずは簡単におさらいから。キャンディことキャンディス・ホワイトは、アメリカ、ミシガン湖の南にあるポニーの家という孤児院で育ち、のちにラガン家にイライザの話し相手として引き取られる。そんなキャンディがイギリスへ渡航するきっかけとなったのは、彼女がアードレー家の養女となり、そのお披露目のキツネ狩りが行われた際、キャンディが恋したアンソニーの落馬による死であった。悲しみを乗り越えるために、アードレー家の総長、ウイリアム大おじ様の案により、アンソニーと親しかった一族の子供達をイギリスの名門校に留学させたという経緯がある。つまり、キャンディの他、コーンウェル家のステアとアーチ―兄弟、ラガン家のニールとイライザ兄妹が揃ってロンドンへ留学する。またアーチ―を追ってキャンディの孤児院での幼馴染、アニーも渡英する。そして、渡航の船の中で、キャンディは初めてテリィことテリュース ・G・ グランチェスターに出会う。

ここが『キャンディ・キャンディ』のイギリス舞台の始まりである。

アメリカからイギリスへ渡るキャンディ~モーリタニア号でサザンプトン港へ~

時は1913年(大正2年)、「キャンディと100年前のアメリカ」の作者によると、「なかよしまんが新聞」で、キャンディが乗船したのはモーリタニア号(Mauretania)という豪華客船で、西回り航路で大西洋を渡りサザンプトン港に降りついたと記載されている。

モーリタニア号が航行する写真
モーリタニア号

因みにモーリタニア号は当時の商船で最も速く、処女航海の復路で23.69ノットという記録を出している。リバプール・ニューヨーク間を通常5~6日で航海していた。前年1912年4月にはタイタニック号の沈没事件があり、その際モーリタニア号はタイタニック号の積荷目録を輸送した。モーリタニア号もタイタニック号並の豪華客船で、ウイリアム大おじ様の執事ジョルジュが付き添い、キャンディは毎晩催される舞踏会で、ある夜ワインを少し飲んでいた。霧の濃い夜も更ける頃、外気を吸おうとデッキに出たキャンディは、そこでテリィと出会う。悲しげな顔をしていたテリィを、キャンディはアンソニーに似ていると思ったが、話しかけると全くの別人であるテリィにびっくりする。おまけに「ソバカスの中に顔があるみたいだ」とからかわれる。
この船の汽笛や船内の様子を下の動画でご覧いただき、キャンディとテリィの出会いのシーンに思いを馳せていただきたい。

モーリタニア号はサザンプトン港に到着する。先にイギリスに到着し、学院生活を始めていたステアとアーチ―が港に迎えにきていた。船には無数の紙リボンが下り、家族や知り合いを歓迎する人でごった返し大変な混みようだ。4人はここからジョルジュの提案で、ロンドン動物園(London Zoo)へ寄ってからセントポール学院へ車で移動する。
到着した港では、横目にテリィが車に乗るのを確認するが、その時ジョルジュからテリィは貴族グランチェスター家の御曹子だということキャンディは聞かされる。

なかよしまんが新聞の表紙
なかよしまんが新聞

ロンドンへの移動で立ち寄るロンドン動物園

キャンディはクリンと名付けたペットで友達のアライグマを連れていたが、ジョルジュはクリンをロンドン動物園に預けることを提案する。全寮制の学院の寮で動物を飼うことは許されないからだ。キャンディは心を鬼にして泣く泣くクリンを手放すが、クリンは戻ってきてしまう。死んだふりをするクリンを見て、キャンディはクリンを流行りの毛皮のショールに見せかけて学院に入ることを試みる。(失敗に終わるのだが)

1930年代のロンドン動物園、ペンギンが観客の前をパレードする白黒映像
1930年代のロンドン動物園
©vintag.es

ロンドン動物園が科学的研究所として開設したのは1828年。資金集めの目的で動物園として一般に公開されたのは1847年と、キャンディが足を運んだ66年前のこと。すでに一般人にも広く知られていた。
1902年にサー・ピーター・サルマーズ・ミッチェルがロンドン動物学会の事務局長に就任し、動物を狭い檻に入れるのではなく、なるべく放し飼い状態にした環境に置くという改革が行われた。

1930年代のロンドン動物園、観客の前でゾウガメを扱う白黒映像
1930年代のロンドン動物園
©vintag.es

そこで施設が次から次へと改築されたのだが、この物語りの中のアメリカから来たアライグマを勝手に動物園に放置するという、ジョルジュのアイデアは如何なものだろうかと、少し首を傾げてしまった。

因みに『キャンディ・キャンディ』の作者を弁解すれば、クリンはマンガ版には登場せず、アニメのみの企画である。

また、気になるのはサザンプトン港からロンドン動物園までの距離と経路である。グーグルマップで見ると、距離は140km、現在の車で約2時間かかる。この頃の車は現在と同じ速さで走っていたようだが、当時は今のように高速道路がなかったため、道は今ほど舗装されておらず凸凹があり、走りにくかったかとも推測できる。しかし当時のイギリスには、すでにローマ街道という優れたインフラがあった。

サザンプトン港からロンドンまでを示したローマ街道の地図
ローマ街道地図1
©North East Hants Historical & Archaeological Society

地図を見る限りでは、ライト島の真北あたりのサザンプトン港からロンドンまで2つのローマ街道のルートがある。

サザンプトン港からロンドンまでを示したローマ街道の地図
ローマ街道地図2 ©Sasha Trubetsky

サザンプトン港から、一つはPortwayとDevil’s Highwayという道を通った西回り、もう一つはポーツマスあたりからまっすぐ北上するStane Streetという道を通った東回りのローマ街道がある。

どちらのルートでもだいたい同じくらいの距離で、地図を見る限りどちらが近道というのはなさそうだ。ローマ街道には馬車も多く、渋滞も考えられる。これらのことを踏まえ、おそらくキャンディの乗った車がサザンプトン港からロンドン動物園までかかった所要時間は、約3時間半から4時間程度だったのではないかと考えられる。長い道のりである。
アニメの映像では、ロンドンの主要観光地、ビッグ・ベン、ウエストミンスター寺院、ピカデリーサーカス、タワーブリッジ、首相官邸を周り、バッキンガム宮殿では衛兵交代を見ている。
疲れを知らないキャンディはこれらの観光地に感激している。

キャンディが留学した名門校、セントポール学院

実在するセントポール学院の歴史

読者の皆さんは私と同じく、この学院は架空のものであろうと信じていたかもしれない。私もこの記事を書くにあたって、ロンドンの1910年代の寮制度を導入していた名門校について調べるまでそう思っていた。しかし、水木杏子はこのことを見事に覆した。

創立当時のセントポール学院の校舎
セントポール学院、1509年創立時の校舎の一部
©St Paul’s School

セントポール学院(St Paul’s School)は、セントポール大聖堂の首席司祭であったジョン・コレットによって1509年に設立された。

ジョンコレットの肖像画
ジョン・コレット(1467~1519)

コレットの父は、ロンドン市長を2度務めたヘンリー・コレット卿。一人っ子のコレットは、1505年に多額の財産を相続する。その全財産をセントポール学院に投資し当時イングランドで最大の学校を創立した。これが、キャンディが留学した名門セントポール学院である。

コレットは1519年に52才で亡くなるまで学長を務めた。興味深いことに、設立当時の16世紀、学校の運営は教会に委ねられるのが一般的だったが、コレットは既婚の労働者こそ最も信頼できると考え、ロンドン市の最高ギルド、「ロンドンの商人の中で最も忠実なフェロウシップ」を学校のパトロンと護衛、権力者として起用したという事実がある。

これはキャンディ・キャンディ物語の中でのテリィの父、グランチェスター公から多額な寄付金があったため、学校側はテリィの数々の不良行為の処罰を免責していたということと相反している。

セントポール学院の所在地を示した地図
セントポール学院地図
©St Paul’s Schoo

セントポール学院の最初の校舎は、悲しくも1666年のロンドン大火で全焼してしまう。この後4回ほど移転、再築を繰り返し、1968年に現在のバーンズの敷地に至っている。

キャンディのいた1913年の学院の正確な場所は確認できていないが、「セントポール学院の歴史」によると、現在置の近隣で、西ロンドン・ハマースミスからテムズ川を挟んで南岸のあたりにあっただろうと推測している。
現在のロンドン日本人学校アクトン校からそう遠くない。

セントポール学院は現在に至っても男子校で、7歳から17歳、日本で言えば小学生から高校2年生が学んでいる。過去5年間、卒業生の約3分の1がオックスフォード・ケンブリッジ大学に進学していることを誇る名門校である。コレット自身もオックスフォードで学んでおり、卒業後は教壇に立っている。

セントポール大聖堂

セントポール大聖堂の首席司祭であったジョン・コレットは、セントポール学院の建設にあたって当時のセントポール大聖堂を真似て校舎を設計させたことが予想される。

セントポール学院が創立したころの旧セントポール大聖堂
セントポール学院が創立したころの旧セントポール大聖堂

1569年落雷によって尖塔が破壊されたセントポール大聖堂。
このころヘンリー8世とエドワード6世による宗教改革で、大聖堂の内装外装の装飾品、チャペル、聖堂などが取り壊されていった。

1896年に修復されたセントポール大聖堂
現在のセントポール大聖堂1896年

1666年に全焼した大聖堂、当時修復を試みたが最終的には断念し取り壊すこととなった。現在の大聖堂はクリストファー・レンが設計したもので、1711年の12月25日完成の建物が現存している。
セントポール学院の校舎デザインは、1666年焼失前のセントポール大聖堂とよく似ており、この大聖堂を模したのではないかと推測している。

しかし実際に屋根が完成したのは1720年代といわれる。つまり、セントポール学院の校舎のデザインが、旧セントポール大聖堂のそれに近い理由である

セントポール学院月刊誌『ザ・ポーリン』(The Pauline)

セントポール学院には1832年に始まる『ザ・ポーリン』(The Pauline)という学院月刊誌があり、学院内外で催された行事、スポーツ大会の結果などのニュース、その他の活動内容などが細かに書かれている。
ポーリンとは聖ポール(聖パウロに同じ)の教えの事であり、学院誌の名にふさわしい。この学院誌の内容から、学院内でフットボール、クリケット、ファイヴズ、ローイング、ボクシング、水泳のスポーツクラブ、つまり部活動のようなものがあり、盛んに行われていたことが分かる。
それらの中の一つ、ファイヴズとはイギリス発祥のハンドボールのような競技で、壁にボールを投げながらゴールに入れて点を稼ぐというもの。現在はイギリスの9か所のみで行われている伝説の競技。大まかに2種類あり、そのうちの一つはイートン校で生まれたとされている。
フットボールに関しては、5層のチームで編成されており、特に盛んだったようだ。

1887-1888年のセントポール学院フットボールチーム
セントポール学院フットボールチーム
©St Paul’s School

余談だが、リチャード・ボウエン著『英国柔道100年史』(100 Years of Judo in Great Britain, Richard Bowen (2015) Author Essentials) によると、英国武道会が1920年代にこの学院から柔道と剣道の演武の依頼を受け、実際演武が行われたことが記録されている。ただし、残念ながら現在学院で柔道部も剣道部もないようである。

セントポール学院の学院月刊誌「ザ・ポーリン」 1910年12月号の表紙
セントポール学院の学院月刊誌「ザ・ポーリン」
1910年12月号
©St Paul’s School

『ザ・ポーリン』には、音楽祭や公募など文化的活動の記事も溢れている。1910年12月の記事では、セントポール学院がフットボールで名門マーチャント・テイラー校に勝利したことが書かれている。
また、大英帝国の占領下にあったインドからの報告や、ケンブリッジからの報告、王立陸軍からの報告など、海を越えた国内外と月一で情報交換をしていたことがうかがえる。
学生からの声の欄では、図書室の科学のコーナーの資料が乏しいので、科学の分野に詳しい管理者を雇い、書籍のリストを考慮して欲しいだとか、校舎のどこそこの歩道が滑って危ないから、歩道の工事をしてほしいなど、生徒と学院責任者とを円滑に繋いでいる役も果たしている。

生徒たちの文章は、さすが名門校だけあって明確で礼儀正しくしっかりとしている。ネットやSNSでコミュニケーションをとる現代の高校生にこの様な文章はまず書けないだろう、と、つい思ってしまう。

残念なことに、1910年12月号185号を最後に、次の号は1914年2月号207号と、キャンディがいた1913年の資料は現在公開されていない。ただ、存在はしていた可能性は高い。それは、186から206号と号数の空白から読み取れる。無論、第一次世界大戦のためセントポール学院の関係者、卒業生や生徒達も戦場へ送られた。ザ・ポーリンの「1914~1919年大戦名簿(War List)」という冊子が発行されており、戦死者のリスト、また各爵位授与のリストが142頁にわたって記録されている。
卒業生たちをオールド・ポーリン(Old Paulines)と呼んでいることから、学院誌の中で使われているポーリン(Paulines)とは、セントポール学院の生徒たちの愛称としても使われていることが分かった。つまり、聖ポール(St Paul)の子供たちという意味で使われている。

セントポール学院での生活を楽しんだであろうキャンディ

セントポール学院創立400周年記念の特別食事会のランチョン・メニュー
セントポール学院創立400周年記念の特別食事会のランチョン・メニュー
©St Paul’s School

キャンディが学院生活を送った1913年の4年前、セントポール学院創立400周年記念の特別食事会が行われた。

この時のランチョン・メニューが記録に残っており、メインにはロブスターサラダやローストチキン、サーモン・マヨネーズ、カポンのベシャメルソース煮、子羊のあばら肉など、超豪華。当時サーモンやロブスターは安価で、鶏肉が高価だったという。カポンとは旨味を引き上げるよう飼育され、適齢期に絞めた鶏肉で、ベシャメルソースはフランス料理の白ワインの入ったクリームソースのこと。
これらの中から恐らく生徒たちは好きなものを選んで席に着いた。

イギリスの伝統的プディング、トライフル
イギリスの伝統的プディング、トライフル
©bbc.co.uk

デザートの一つであるトライフルはイギリスの伝統的なプディングで、浸したスポンジケーキ、ジャム、フルーツ、カスタードクリーム、一番上に生クリームがたっぷりのっている。今でも大変人気のデザート。
食いしん坊のキャンディがこの豪華な食事会を逃したのは残念極まりない。

このセントポール学院生活の中で、休憩時間となればキャンディはテリィと「偽ポニーの丘」で共に過ごし、共に学院の色に馴染まず、互いによき理解者となり、時には喧嘩をしながらも親しくなっていく。そして五月祭では互いに強く惹かれ合っていることに気付くのだ。

後編ではキャンディが夏休みにスコットランドのサマースクールに参加するころから、テリィとの涙の別れ、そしてその後のキャンディ について紹介している。
ぜひ『キャンディ・キャンディ』イギリス舞台を訪ねる<後編>も併せてご覧いただきたい。

【参照文献・情報】

『キャンディ・キャンディ』は小説・マンガ・アニメがあるが、この記事は小説を省いたマンガとアニメ版のみをもとにしている。

ロビン雀円

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ロンドンに20数年在住。現在はベッドフォードシャーの田舎に引っ越して5年目。現役建築士。イギリスの大聖堂や教会はじめ、古い建物大好き。2年前購入したカンパ―...

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