イギリス映画談 ~黒澤明とカズオ・イシグロの出会い『生きる LIVING』~

2023年3月31日公開

『生きる Living』ポスター
© Number 9 Films Living Limited

黒澤の「生きる」が創られたころ

1910年生まれの黒澤明は1952年に「生きる」を作った。42歳の時である。1943年に「姿三四郎」で監督デビューをし、1950年には「羅生門」がヴェネツィア映画祭で金獅子賞を受賞して国際的にも評価され、日本映画が世界の映画祭で注目されるようになる契機となった。終戦から「羅生門」までの5年間に作った作品には「わが青春に悔なし」「素晴らしき日曜日」「酔いどれ天使」「静かなる決闘」「野良犬」「醜聞」があった。終戦という大きな変化、民主主義が広く受け入れられていく日本社会を映し出す作品が並んでいる。

役所市民課の課長ミスター・ウィリアムズ(ビル・ナイ)
役所市民課の課長ミスター・ウィリアムズ(ビル・ナイ)
© Number 9 Films Living Limited

「羅生門」の2年後に作ったのが「生きる」である。胃がんと診断された市役所の課長が住民のために、子供たちのために公園の整備を推進し完成させて死んでいくという物語。戦争が終わり、民主主義で未来に対する希望を持ち始めた頃、名もない一人の人間が生きる意味を見出しながら、社会の役に立つことを目指していた。

サー・カズオ・イシグロになるまで

1954年長崎に生まれた石黒一雄は、5歳の時に家族と共にイギリスに移住している。それ以来イギリスに住み続け、1983年にイギリスに帰化、カズオ・イシグロとなっている。それ以前から小説を書き始め、1989年には長編3作目の「日の名残り」で英国最高の文学賞ブッカー賞を受賞している。2017年にはノーベル文学賞を受賞し、更に2018年には”サー”の称号を得ている。現在までに8作の長編小説が発表され、その中から「日の名残り」「わたしを離さないで」の2作が映画化されている。

『生きるLIVING』が生まれるきっかけ

マーガレット(エイミー・ルー・ウッド)とフォートナム&メイソンで
マーガレット(エイミー・ルー・ウッド)とフォートナム&メイソンで
© Number 9 Films Living Limited

今回の映画化が如何に始まったかについて、映画の公式サイトで次のように紹介されている。
“ある晩、作家のカズオ・イシグロとプロデューサーのスティーヴン・ウーリーが夕食を共にしているところに、ビル・ナイが飲みに立ち寄った。「彼らは映画オタクなんです」とナイはその夜のことを笑って思い出す。「彼らは1930年から1957年の間に白黒映画を撮った著名な人物の名前を言い合っていました。お互いにデザイナーや監督、しまいには警察を演じた人物の名前まで当て合いながら。夕食が終わると、イシグロ氏が私のところに来て”君が出るべき次回作がわかったよ”と言うのです。私は”まあ、気が向いたら教えてくれ”と答えました」”

映画の製作者ウーリーによれば、ディナーの後すぐにイシグロから連絡があり、黒澤の「生きる」をロンドンに移し、ビル・ナイを出演させて映画化しないかと言われたらしい。「生きる」の映画化に賛同したウーリーは、その脚本を書くことをイシグロに提案したが、脚本は苦手だし、今は小説を書いているとして断ってきた。その後ウーリーに説得されたイシグロ、最後には引き受けビル・ナイを当て書きに新しい脚本を書いたという。

アニメの声優としても活躍、しかし、もの静かなビル・ナイ

ビル・ナイは目立たない俳優だ。1949年生まれの73歳。イギリスの俳優らしく、舞台出身で、舞台では主役も演じているが、映画での主役は今までなかったのではないか?主人公夫婦の夫役はあるが。口数少なく、画面のどこかに立っている細身の男というイメージ。彼がいるだけで画面が落ち着くというか、安心して見ていられる。目立たないというのは正確ではなく、出しゃばらないという方が良いだろうか。

レストランでのミスター・ウィリアムズ
レストランでのミスター・ウィリアムズ
© Number 9 Films Living Limited

アニメ声優として、手塚治虫の鉄腕アトムを香港・アメリカでアニメ化した「ATOM」ではお茶の水博士の声を担当。その他に3本のアニメ映画で声優をしている。

「生きるLIVING」はどんな映画?

映画の時代は1953年、その当時のロンドンの街の映像が一気に見る者を戦後復興途上のロンドンに連れて行ってくれる。背後に流れる明るいゆったりした音楽が、戦後という状況は同じとは言え、敗戦国の日本と比べれば、充分にきちんと整っている街の生活を彩っている。

列車を待つ帽子を冠った男性たち
列車を待つ帽子を冠った男性たち
© Number 9 Films Living Limited

朝、駅のホームで列車を待つ男たち、黒のボーラーハット(山高帽)を冠り、ピンストライプの背広に身を包んだ彼らが、いつもの乗車位置で話をしている。イシグロはイギリスに来た頃に見たこうした男たちの風景が記憶に残っているという。

ウォータールー駅から歩く距離にあるロンドン市役所の市民課は、課長のミスター・ウィリアムズを入れて6~7人ほどの小さなオフィスだ。仕事が山のようにあり、正に山と積まれた書類が各自の机を占領している。

役所の市民課の面々と
役所の市民課の面々と
© Number 9 Films Living Limited

映画が始まって数分で描かれるこうした職場状況が、思ったより随分明るく、笑えるといえば大げさかもしれないが、ユーモア感覚で捉えられていて楽しむことができる。
今回の『生きるLIVING』は、黒澤が橋本忍、小国英雄と共同で書いた脚本で作られた「生きる」に、細かい事柄も含め思った以上に忠実に作られている。住民の要望がたらいまわしされるお役所仕事から、市民課のメンバーのあだ名、主人公が役所を無断欠勤して放蕩にふける時の案内役、主人公がブランコで歌うところまで2つの作品は同じだ。

ブランコに乗るミスター・ウィリアムズ
ブランコに乗るミスター・ウィリアムズ
© Number 9 Films Living Limited

違う点は市民課にやってきた新人ピーターがかなり役割を持っていることだが、もう一つはユーモアがいつの場合も忘れられずに付け加えられているところだろう。これが随分うまく作用して、硬くならずに見ることができる。

帽子を冠って通勤するピーター(アレックス・シャープ)
帽子を冠って通勤するピーター(アレックス・シャープ)
© Number 9 Films Living Limited

勿論歌われる歌は「ゴンドラの唄」ではない。ミスター・ウィリアムズは故郷スコットランドの民謡「ナナカマド」を歌うのだ。母親の思い出につながる歌として。ビル・ナイがこんなに歌える人だったとは!

酒場でスコットランド民謡ナナカマドを歌わんとするミスター・ウィリアムズ
酒場でスコットランド民謡ナナカマドを歌わんとするミスター・ウィリアムズ
© Number 9 Films Living Limited

映画の成り立ち

『生きるLIVING』は黒澤の「生きる」という土台の上に、イギリス人の製作者スティーヴン・ウーリー(エリザベス・カールセンと共同)、日本出自の作家・脚本のカズオ・イシグロ、南アフリカの監督オリヴァー・ハーマナスが協力して作り上げたことになる。
こうして出来上がった作品は今年のアメリカのアカデミー賞で2部門にノミネートされた。主演男優賞にビル・ナイ、脚色賞にカズオ・イシグロである。残念ながら受賞は逃したが、ノミネートは当然と思わせてくれる作品になっている。
感動しました。

公式サイトhttps://ikiru-living-movie.jp/


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