ライ(Rye)で育まれた陶器作りのクラフトマンシップ
『ハウスオブポタリー』のルーツ、ライの街へ
英国に関わる仕事をしたいと考えていた時お手本にしたのは雑誌、『Country Living Magazine』(カントリーリビング)でした。衣食住を通してスローな暮らしを紹介したいと思い始めて30年。様々な事柄にチャレンジしながらライフスタイル提案を続けています。
今回は私のショップ、『ハウスオブポタリー』開設の起点となった町、ライ(Rye)とそこで出会った陶器のお話をいたします。
ライへはロンドンのセント・パンクラス(St. Pancras)駅又はチャリング・クロス(Charring Cross)駅から電車に乗り、途中アシュフォード(Ashford)でマーシュリンク線(Marshlink Line)に乗り換えます。
湿地帯(Marsh)をひたひた走るローカル線の窓から地平線まで続く平原と空そしてのどかに草を食む羊たちの景色が見えます。イギリスの田園の豊かさを満喫できます。
約1時間30分の旅でライに到着。歴史的建物として保存されている赤レンガの駅舎がお出迎え。日帰りも可能なロケーションなので常に観光客でにぎわっています。
中世の面影を色濃く残す陶芸の街、ライ
中世の街並みがそっくり残されているライは優れた陶芸家を多く輩出した陶器の街としても有名です。私が初めて訪れた1980年代は町に多数の陶芸窯とショップが軒を並べていました。
時代に合わせ移り変わるライの陶器
19世紀から作り続けられているフィギュアと呼ばれるお人形たちはコレクタブルアイテムとして世界中の人々に愛されています。
チョーサーのカンタベリー物語を題材にしたお人形たち。ライの陶器を代表するアイテムです。始めは結婚のお祝いの品として作られていたそうですが現在は貴重なコレクタブルズになりました。
1950年代に入るとライの陶芸に画期的な変化がありました。従来のデコレーション陶器から使える陶器としてテーブルウェア製作が始まったことです。食器という範疇になると使用する釉も絵具も安全なものに変えなくてはなりません。特にお人形時代に使われた鉛を含むデルフトブルーはテーブルウェアに適さないため美しい青色を出すために試行錯誤したそうです。
フィフティーズの頃のライポタリーは従来の伝統的な陶芸から一転しモダンでスタイリッシュなデザインへ転向し50年代を率いる窯として英国陶芸史に名前を残しています。
アイデンポタリー(Iden Pottery)の創始者デニスタウンゼントも50年代を代表する陶芸家の一人です。ライポタリーでの経験を活かし、1959年に自宅のあるアイデン村で作陶を始め、1961年にライの市中に窯を移し、2016年にデニスが完全に引退し閉窯するまで美しい作品を作り続けました。写真はデニスの代表作、スイカズラ(Honeysuckle)です。
アイデンポタリーとの出会い ハウスオブポタリーの始まり
アイデンポタリー創始者Dennis Townsend (デニスタウンゼンド右)と妻のMaureen(モーリーン中央)。(写真は2009年当時です。)
さてアイデンポタリーとの出会いについて少し書きたいと思います。ライフスタイルを伝えるツールのひとつとしてテーブルウェアを紹介したいと考え、英国の陶器会社にアットランダムにカタログ請求の手紙を出した私に丁寧な返事をくれたのがデニスでした。彼の作品に一目ぼれしライを訪ねたのが1990年の暮れ。ライの駅に降り立った私を迎えに来てくれたデニスと、その後25年間一緒に仕事が出来たことは幸運意外の何ものでもありませんでした。
欧米と食文化の違う日本ではテーブルウェアの種類も異なります。その後の15年間は日本のマーケット向けにイギリス人の食卓に並ぶテーブルウェアと形やデザインの違う陶器を開発し、アイデンポタリーの食器の紹介をしてきました。全盛期は全国で120店の販売先を誇り、コラボレーションすることで成功したビジネス例としてライのローカル紙に取り上げられたこともあります。
2000年代に入り日本経済の低迷とアイデンポタリーの後継者不足が重なり、ビジネスは縮小の一途をたどりましたが、彼らとの友情はその後もずっと続いています。
もしあの時デニスに出会わなかったら、ハウスオブポタリーの仕事もずいぶん変わっていたのではと思います。彼らと深い信頼関係を保ち仕事ができたことで、人脈の大切さを身をもって教えられました。そして何よりもモノ作りの楽しさを体験出来たことはその後の仕事に大変役立ちました。
次回も引き続きライの町と人々のお話をいたします。