イギリス映画談 ~”5人目のビートルズがいたとしたら”とポールは言った『ブライアン・エプスタイン 世界最高のバンドを育てた男』~

2025年9月26日公開

©STUDIO POW(EPSTEIN).LTD

リヴァプールのキャバーンクラブでビートルズとブライアン・エプスタインが出会ってから64年が過ぎようとしている。人の出会いが世界を変えていくことがあるものだ。

ビートルズとわたしの出会い

中学2年生の時だったと思うが、イギリスで新しい音楽グループが人気を得ているという記事が朝日新聞に掲載されたことを覚えている。半世紀以上前のことで、はっきりいつという記憶はない。1962か3年だったと思う。それがビートルズだった。4人のグループで、髪型がマッシュルームカットというちょっと変わった形と書かれていた気がする。

コンサートホールで演奏中のビートルズ
©STUDIO POW(EPSTEIN).LTD

今回調べてみると、2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」がイギリスのメロディ・メイカー誌1963年3月2日付のシングル・トップ50で1位になっているので、それを踏まえての朝日の記事だったのだろう。
そのころに私が住んでいた中部地方では、なかなか聞くことが難しかったニッポン放送のラジオ番組「高崎一郎の”ベスト・ヒット・パレード”」を手に入れたソニーの高性能トランジスターラジオで聞いていたことをよく覚えている。それまではビートルズという名前もその曲も聞いたことはなかった。当時日本で聞かれていたポピュラー音楽(ポップスと呼ばれていた)はアメリカのヒット曲が中心だったのだ。

ビートルズがアメリカで認められ、ビルボードのトップ100に入ってくるのには少し時間がかかったようだ。ビルボードのシングルチャートで1位になったのが1964年2月1日で、曲は「抱きしめたい」。同じころビートルズは渡米し、エド・サリヴァンショーに2回出演。2回目の出演の時、サリヴァンは1回目の出演がアメリカのテレビ史上最高視聴率を上げたとコメントしている。同年4月4日にはチャートの上位5位までを独占し、アメリカでの人気が爆発したことを示している。こうしてビートルズの人気は世界的となっていった。1966年6月から日本を含む最後の世界ツアー、8月にはアメリカで公演を行い、8/29のキャンドルスティック・パークで公演活動を終了した。
こうしたビートルズの活動はこの映画の中でも描かれている。

ビートルズの映画と好きな曲

ブライアン・エプスタインが1961年11月9日にビートルズの音楽を聴くためにキャバーンクラブに出かけた。

キャバーンクラブで演奏するビートルズ
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そこからビートルズが始まったと考えれば、1971年3月12日に法的に解散が認められるまで約10年の活動だったことになる。(実活動はもっと短い)
アメリカでの人気が爆発した1964年には映画「ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!」を、翌1965年には「ヘルプ!4人はアイドル」を共にリチャード・レスターの監督で製作、発表している。その後、1968年にはアニメーション映画「イエロー・サブマリン」を、1970年にはドキュメンタリー「レット・イット・ビー」公開している。
Wikipediaで”ビートルズの映画”で検索すると、かなりの関連映画が出てくる。ドキュメンタリー作品が多いが、監督がロバート・ゼメキス、ジュリー・ティモア、ロン・ハワード、ピーター・ジャクソンと一流の監督作品が多いのにも驚く。

初期のころから名曲が多かった。彼らの曲で好きなのは「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」だ。 “長く曲がりくねった道”はその頃のポールの心情を歌ったものだったろう。別れゆくグループのことを歌っていたのだろうと想像してしまう。この曲のアレンジを巡っての争いが1971年のグループ解散原因の一つでもあったようだ。
哀切なこの曲を好きになって初めてビートルズを意識的に聞くようになった。

ブライアン・エプスタインを知っていますか?

エプスタインとポール
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ブライアン・エプスタインという名前を知ったのは、ビートルズを聞き始めてからだ。彼らを見つけ、マネージャーとしてグループを世界的なバンドにした人ということだけは知った。リヴァプールでレコード店を経営していた人ということもどこかで読んだ。

“どんなレコードも5日以内に”の案内のあるエプスタインのレコード店
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この映画はそのエプスタインの人生を描いたドラマだ。一番驚いたのは彼が1967年に32才で亡くなったということだった。そんなに若くして亡くなっていたとは!ビートルズが世界的なバンドとしての地位を確立し、公演活動終了を決定した時期と重なる。エプスタインの仕事は減っていて、自身の必要性が無くなって悩んでいたとも言われているらしい。死因はアスピリンの過剰摂取だったが、自殺ではなく事故だったとビートルズのメンバーは証言している。

エプスタインと部下のアリステア・テイラー
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父親が経営していた家具店の一部にレコード店を開設したことから、エプスタインのキャリアは始まる。彼にはビジネス的センスがあったようで、徐々にレコード店を大きくし、キャピトルやデッカなどレコード会社との関係も良好だったようだ。彼の才能はビートルズのマネージャーになってからも活かされ、アメリカ公演時の裏での彼の活躍もこの映画で初めて知った。

エプスタインと前のマネージャー、アラン・ウィリアムス
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EMI傘下のパーロフォンという会社のジョージ・マーティン(後にビートルズのプロデューサーとなる)に音楽面での評価を聞き、さらに、ドラマーをピート・ベストからリンゴ・スターに替えたのもエプスタインだったことも教えてもらった。

ピ-ト・ベスト(右から2人目)のいたビートルズ
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彼にはどこか影があったのは、ゲイであったことが関係していただろうことも描かれる。1960年代前半のイギリスではそうした行為は犯罪だったのである。

60年代のリヴァプール

ヴィクトリア女王が統治していた1837~1901年はイギリスの産業革命の時期であり、リヴァプールは港町として栄えた。最盛期80万人ほどの人口を誇っていたが、第二次世界大戦でドイツ軍からの激しい爆撃があり、さらに戦後は繊維産業の衰退等でイギリス全体が不況となり、それに合わせて人口は50万人にまで減少している。
60年代の後半にはビートルズの成功により、リヴァプールは音楽の町として知られるようになった。

命名から65年、解散から55年の節目となる今年、裏方としてビートルズを育て上げた敏腕マネージャーの波乱万丈な生涯を描いたこの映画で、一味違ったビートルズを懐かしむのはいかがだろうか。

公式サイトhttps://longride.jp/lineup/brian/

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