美術家ソブエヒデユキの湖水地方のらりくらり Vol.4
南湖水地方の歴史の街ケンダル
ラテン語で『Pannus mihi panis(パンヌス ミヒ パニス)』、邦訳では『羊毛は我がパンなり』をモットーとする南湖水地方の歴史の街ケンダル。
中世より毛織物産業で栄えた街としての誇りを今に伝える素敵なモットーですね。実は、ケンダルの歴史は古く、紀元1世紀のローマ帝国時代にまでさかのぼります。対スコットランド北方戦線の駐屯地だったそう。とはいえ、現在の市の中心からは南に3キロほど離れた、今日ウォータークルックと呼ばれるケント川のほとり一帯に位置していました。
ローマ帝国崩壊後しばらくすると、今度は古代スカンジナビア人、いわゆるバイキングが襲撃、この地にも定住して集落を作ります。そして、1066年ノルマン人がイングランドを征服し、ノルマンディー公ギョーム2世がウィリアム1世として即位、現行イギリス王室の基が築かれるわけです。征服王ウィリアムは、その即位後まもなく税制改革のために検地を行います。それをまとめた土地台帳として知られる「ドゥームズデイ・ブック(Domesday Book)」には、ケンダルがすでに栄えていたことが記されているようです。今は廃墟と化した二つの城跡が、当時の面影を伝えています。そのひとつ、ケンダル・キャッスルは13世紀に築城、ケンダル男爵家が代々暮らしたお城です。やがてその男爵家のひとつパー家の所有となるんですが、男爵の娘キャサリン・パーは、あの悪名高きヘンリー8世の第6番目、最後の王妃となったことで知られています。史実ではないとされていますが、キャサリンはこのケンダル・キャッスルで産声を上げたという逸話も残っています(註1)。
現在は、カンブリア州第3の人口をもつマーケットタウンとして知られるケンダル。ロンドンから市のオクセンホルム駅まではウェスト・コースト本線の特急列車でおよそ3時間とアクセスもよく、湖水地方の南の玄関口と呼ばれるケンダルは、年中様々な催しで賑わい、カフェやレストラン、パブ、様々なショップ、美術館や映画館などが中世からの佇まいと溶け合う素敵な街なんです。
街の中心を流れるケント川
ボクが8歳から高校卒業まで暮らした愛知県犬山市は、国宝犬山城とドイツのライン川になぞらえライン下りで知られる木曽川でつとに知られる山と川と古城の街。小学生の頃は、その支流の郷瀬川でよく川遊びを楽しんだものです。そんな思い出もあってか、ボクは川のある街が好きです。
ところで、ケンダルを二分するように流れるケント川は、この街をいっそう美しくしています。
湖水地方の高原よりモーカム湾へと注ぐこのケント川には、カモメや白鳥、様々な水鳥たちが憩い、清水にしか生息しないザリガニも見られ、E U自然環境保護区に指定されています。最近では、ボクもはっきり目撃したんですが、カワウソも小魚を漁りにやって来ます!この川の名の由来は古く、バイキングがこの地方に移住する前の古代ケルト語から来ているのだそう。そこに古代スカンジナビア語で「谷」を意味する”Dalr(ダル)”が付いて、ケント川の流れる谷間(ダル)の街ケンダルとなったようです(註2)。ケント川のほとりは遊歩道や芝地が設けられ、街の住人や観光でこの街を訪れる人々の憩いの場となっています。まさに、古代よりこの南湖水地方の人と自然の営みを見続けて来た生き証人と呼ぶにふさわしい川。
ここで、ふと、映画『千と千尋の神隠し』で、溺れかけた少女の千尋をふところに包み込むようにして救った太古の川の擬人化、あるいはその川の神として登場する琥珀のことを思い出しました。あの映画は、日本の精神性や文化観を鏡のように映し出し、戦後日本が突き進んできた経済偏重主義やそれに伴う環境破壊への痛烈な批判が象徴的・暗喩的に散りばめられ、めくるめくようなアニメーションに昇華されていて、本当に見事でした。いずれにしても、このケント川を抜きにしてケンダルは語れません。
ケント川の向こうにスタジオを構える木工アーティストの友人
このケント川を挟んで街の中心から川向こうに、アーティストやクラフト作家、デザイナーなどのクリエイターたちがスタジオを構える一角があって、数年前までボクもその一室をスタジオとして借りていました。
その階下の部屋を仕事場にしていた木工アーティストのポールさんとは、この時以来の親友。2015年初冬の大豪雨でケント川が氾濫し、ケンダルは街の3分の1が浸水、当時のポールさんのスタジオも大打撃を受けたんですが、幸い作品や工具などすべて階上に移して最悪の事態は免れることができました。現在は別の一角にスタジオを構え、日々制作に励んでいらっしゃいます。
ポールさんが制作しているのは主に椅子なんですが、彼のことを木工アーティストとボクが呼ぶのは、その頑ななまでの伝統技法へのこだわり。木を切り出すことから始め、それを自身のデザインに従って加工して必要パーツをひとつひとつ丁寧に作り、それを微妙なバランスを保ちつつ組み立てて、世界でただ1点の手作り椅子を完成させるんです。伝統工具のほか機械類はいっさい使わず、釘も使用しません。
ひたすら手作り。だから出来上がった椅子はただ1点のオリジナル作品。そこには、大量生産をベースにした機械文明がもたらす人間性阻害を痛烈かつコミカルに風刺した、チャールズ・チャップリンの映画『モダン・タイムス』の精神が息づいているかのよう。全工程をひたすら手作りで制作し続けるポールさんのこだわりは、テクノロジーが加速し、いよいよ一人歩きし始めた21世紀、人間性の本質になおも真摯に向き合い、そのゆくえを問い質すものであると、ボクは思うのです。
この日は娘のケミと一緒にスタジオを訪ねました。かつてケンダルのアートカレッジに通っていた頃、娘はボクのスタジオに毎日のように顔を出していたので、ポールさんとも大の仲良し。
手作り工程を実演しながら、伝統的な匠の技を熱く語るポールさんの険しくも柔和な表情に、仕上がりつつある新作の椅子の、手作りでなければ生まれない、しなやかさと逞しさを併せ持った表情が重なり、ボクはその意匠の背後に緩やかに流れる時間の豊かさに想いを馳せました。こうして、ボクたちはひとしきり歓談を楽しんだ次第なのです。次回は、小さな隣町カートメルをご紹介したいと思います。どうぞお楽しみに!
註1:参考資料/visitcumbria.com, creativetourist.com, visit-kendal.co.uk, britainexpress.com
註2:The Cambridge Dictionary of English Place-Names Based on the Collections of the English Place-Name Society, edited by Victor Watts, Cambridge University Press, 2004