写真で巡るイギリスの旅
~『嵐が丘』の舞台、ブロンテ姉妹ゆかりの地”ハワース”~
邦題の小説『嵐が丘』(原題:Wuthering Heights)をご存知だろううか。
1847年にイギリスで刊行された長編小説で、ウィキペディアの情報によると英語圏では「世界の三大悲劇」や「世界十大小説のひとつ」と評されているようだ。19世紀の英国を舞台に、愛憎と慈悲、復讐が描かれた物語で、和訳をされた数々の書籍、また古くは1939年以降数回にわたって映画化されているので、ご存知の方も多いと思う。
今回は、そんな『嵐が丘』の舞台、また作者のエミリー・ブロンテのゆかりの地、ハワース(Haworth)を写真とともにご案内しよう。
イングランドの田舎町『ハワース』(Haworth)
マンチェスターの北方、車で1時間強に位置するイングランドのウェスト・ヨークシャー地区にある、人口6,400名ほど(2011年現在)の町ハワース
小説『嵐が丘』の舞台、ハワースへ
「嵐が丘」の舞台ハワースへ「はるばる日本から訪れる人が沢山いるけど、なぜこんな田舎に来るんでしょうか」と、地元の人に不思議がられるが、観光案内所には日本語のパンフレットも用意されていたので少し驚いたものだ。
1800年代に文壇で活躍したブロンテ三姉妹、姉のシャーロットは『ジェーン・エアー』、エミリーが『嵐が丘』、妹のアンが『ワイルドヘルトの人々』を発表し、イギリス文壇におおきな影響を与えたと評価されている。
ハワースの町は、斜面に黒ずんだ陰気な建物が肩を寄せ合うばかりに建ち並んでいる、小さな集落であった。
私はこれまで2回ハワースを訪れている。最初の滞在は3時間ほどで、街の様子を見ただけであったが、なぜかこの街に惹かれるものを感じ、また1年後に宿を予約し訪れた。物語に登場する場所や、ブロンテ姉妹のシャーロット、エミリー、アンがすごしたハワースの荒野、坂道や農道を上ったり下ったりしながら1日歩き続けて日没まで撮影した。
勾配が急な曲がりくねった細い坂道が続き、上って下ってを繰り返してようやくハワースの市街地に到着する。
玉石が敷かれた坂道を上がっていくと、道の両側には土産物屋が立ち並びB&Bやコーヒショツプが並んでいた。
19世紀イギリスの町の共同トイレは汚物の山、ゴミ捨て場は強烈な腐敗を放っていた劣悪な環境で、特にハワースは最もひどい環境であったと、様々な文献から読み取ることができる。
だがもちろん現在のハワースは、そのような環境ではないことは付け加えておく。
唯一の兄弟ブランウェルが通ったパブ『ブラック・ブル』(Black Bull)
ハワースの町に到着し、昼食しようと『ブラック・ブル』という名のパブに入った。ブロンテ姉妹には男の兄弟のブランウェルがいる。唯一の男の兄弟であったブランウェルはみんなに溺愛され甘やかされ育ったため、うぬぼれの強い青年に成長した。文学や絵画に才能を求めたが、いずれも失敗に終わり酒と麻薬に溺れて急速に生活が荒れ31歳の若さで急死した。
彼がよく通ったお店が、この『ブラック・ブル』である。今でも彼が愛用した椅子が置かれている。
『ブロンテ博物館』(Bronte Parsonage Museum)
ブロンテ姉妹の住んでいた時代ハワースの人口は約4,000人であったそうだが、前述のように当時のイギリスの街中では共同トイレは汚物の山、ゴミ捨て場は強烈な腐敗臭を放ち、劣悪な環境に加えて、水の設備も不完全で死亡率は高く平均寿命は25歳ぐらいだった。ハワースも同様にひどい環境であった。
世界的に有名な小説を世に出したブロンテ姉妹が暮らした牧師館(父、パトリックは牧師としてハワースに転任していた)は、いまは当時のままに保存されたブロンテ博物館となっている。展示されている遺品の中の小さなドレスは、彼女たちの小柄な体格を忍ばせ、生活環境の悪さが哀れに思われた。
元々エミリーとシャーロットの間にはブランウェルが描かれていたが、彼自身の手によって塗り潰された姉妹の絵。
『ハワース・パリッシュ・チャーチ』(Haworth Parish Church)
この荒涼とし貧しささえ感じる町、ハワースに似合わない立派な教会が建っていた。それが『ハワース・パリッシュ・チャーチ』、土地の人々の信仰とともに700年の歴史を刻んできた。
ブロンテ姉妹の母親マライアは、ハワースに来てわずか一年でこの世を去った。その子供たち、息子のブランウェルは31歳 、エミリーが30歳、アンは29歳でそれぞれこの世を去っている。この教会には、アン以外のブロンテ一家が礼拝堂の地下に埋葬されている。
妹アン・ブロンテの埋葬地
エミリー・ブロンテは、『嵐が丘』刊行の翌年1849年12月に30歳で生涯を閉じるが、当時の衛生状態が悪かったことを表すように、エミリーの妹アンも同じ1849年、一足先の5月に保養で訪れていたスカーボロで28歳の生涯を終えた。
写真は、私がスコットランドよりロンドンに帰る途中、スカーボロ城の下にあるセントメアリー教会墓地にアンが埋葬されていることを思い出し撮影したものである。
アン以外のブロンテ一家が埋葬されたハワースの教会とは別に埋葬されている。
ペニストン・ヒル(Penistone Hill)
『ハワース・パリッシュ・チャーチ』の裏手の墓地を抜けて荒涼とした丘への小径を歩いて登ると、西ヨークシャーの眺望がきくペニストン・ヒルにたどり着く。季節によってはヒースの赤紫に埋まるこの丘の上には、ペニストン・ヒルと刻まれた石碑が置かれている。
『嵐が丘』をハイキング
観光案内所で入手したウォーキングマップをもとに、ブロンテ姉妹遊び場と言われる橋や、滝、姉妹が座り小説の構想を練ったであろう岩の椅子の傍を歩き、『嵐が丘』の小説に登場する廃墟「トップ・ウインゼンズ」まで、11キロほど写真を撮りながら歩いた。
ローワー・レイス貯水池(Lower Laithe Reservoir)
ブロンテの椅子(Bronte Chair)
人がちょうど座れるような形になっている岩、
姉妹がこの岩に座って小説の構想を練ったと言われている。
ブロンテの滝(Bronte Falls)
このフットパスからのアングルだけでは滝といえるほどのものではなかったが、この上部は多段に連なる滝となっているそうだ。
ブロンテの橋(Bronte Bridge)
細い石を渡して作られたブロンテの橋。
姉妹が使っていた当時の橋は洪水で流されて、現在は架け替えられた橋になっている。傍らの岩には、記念文字が刻まれている。
ハワースのムーア
寒々しい荒野でも、羊が草を育んでいた。
ムーアの標識
所々に標識があるが、方向を間違えやすい。
トップ・ウィゼンズ(Top Withens)
農家跡のこの廃墟、トップ・ウィゼンズが『嵐が丘』に登場したキャサリン一家とヒースクリフが暮らしていた家の舞台になったと言われている。現在は、落雷のために半壊し、家の土台となる石造りのみが残されている。
実際の『嵐が丘』の小説とは関係ない農家かもしれないが、『嵐が丘』ファンにとっては感慨深い場所のひとつである。
帰り道で出会ったムーアの夕暮れ
苦労してハイキングをしたおかげか、ハワースの町に帰る途中に雲間から光が差し込むお気に入りの一枚をカメラに収めることができた。
「ここは本当に美しい土地。
イギリス中でこれほど世間離れて土地はちょっと探し当てられまい。
人間嫌いにとっては全く天国だ。」
撮影が終わりハワースに戻る途中、この一節がすべてを表していると感じた。
『嵐が丘』の本を読む
映画『嵐が丘』
1939年版から、1992年の字幕版
1988年に、松田優作や田中裕子の出演日本版にリメイクされた『嵐が丘』もご覧いただけます。
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